ジーンズがワークウエアから
若者のシンボルへと変化した瞬間

リーバイス®のアイコニックパーツである、
レッドタブが47年の時を経てスモールeから
再びビッグEへと生まれ変わる。
47年前といえば1971年。リーバイス®の
母国であるアメリカはこの時代、
「ラブ&ピース」を合言葉に若者たちが
ひとつになって巻き起こした
ヒッピームーブメントの真っ只中にあった。
今回登場していただいた、
石川次郎氏と小林泰彦氏は、
当時いち早くアメリカへ渡り、
この社会現象のなか街を行き交う若者たちの
リアルなファッションを観察・取材しながら
体験してきたという大変稀有な存在。
そんなお二人のジーンズ体験や、激動とも
いえる1960年代後半〜70年代アメリカの
若者たちの
ファッションスタイルなどを
たっぷりと語っていただいた。
photo: Yoshito Yanagida / text: Noriyuki Tooyama

ラジオと古雑誌で膨らむ
アメリカへの強い憧れと探究心

石川:小林さんは1935年生まれで僕は1941年生まれ。6歳くらいの差だけど、これにはとっても意味がある。小林さんは太平洋戦争前、当時まだ日本がリッチで余裕があった頃に生まれた。すでに南の方でドンパチやっていたけれど、連戦連勝で国の勢いはもの凄く強かった。僕は1941年、太平洋戦争が始まる年に生まれたから、小学校に入る頃はすでに戦争に負けたあとだった。

小林:今はそういう常識はないと思うけど、戦前の日本っていうのはアジアでは考えられないくらい豊かな国だったんです。程度の高い文明国ですよ。アメリカ、ヨーロッパに追いつけ追い越せだったけど、むしろ本当に追い越してしまうくらいの勢いだった。

石川:それでね、調子に乗って戦争なんてやっちゃって、見事に大負けして、一気になんにもなくなっちゃった。そんな時代に我々は少年時代、青年時代を迎えるんだけど、僕たちに大きな影響を与えたのが、駐留米兵の存在だった。僕の世代になると、自我が芽生え始める4、5歳の頃は、すでに戦争は終わっていた。なにもないし、すごく貧しいんだけど、希望だけはあってね。そのあたりも小林さんとちょっと違いますね。でも僕らは、日本に駐留していたアメリカ軍の影響をモロに受けていますよね。音楽や映画、ファッションや食べ物だったり、表層的な部分からなんだけど、アメリカっていう国がおもしろくてたまらなかった。

小林:僕はしばらく経ってから、世界で一番強い日本に勝ったアメリカっていうのは一体どんな国なんだ? っていう意識に変わっていって、興味を持った。それでまずアメリカ文化の凄さというのを、その後に入ってきた映画と音楽で知ったんです。

石川:大衆文化ですね。

小林:映画の中でも特に力があったのはミュージカル。西部劇は戦前から日本に入ってきていたから、どうってことないんですよ。ミュージカルでガーンとやられた。

石川:アメリカの文化を知る手立てとしてまずあったのが、ラジオ放送。駐留軍の兵士のために流している放送で、当時はWVTR。これは世界中にあるけど、その東京版。その後、FEN(FAR EAST NETWORK)という名前に変わるんだけど、とにかく朝から晩までむこうの音楽を中心に放送していましたよね。

小林:24時間放送しているっていうのがそもそも凄い。当時、日本のラジオっていったらNHKしかなかったし、僕らが聴きたい音楽なんて絶対に放送していなかった。聴きたい音楽はWVTRだけ。夜中でも聴けるしね。

石川:なぜか電波が強いんだ。他の局にチャンネルをあわせて聴いていても、裏からFENが聞こえてくる(笑)。

小林:そうそう。優先的に電波を取っているだろうし、出力もかなり凄かったんじゃないかな。

石川:僕がよく聴いていたのはカントリー&ウエスタン。小林さんはハワイアンですよね。音楽の情報はそのラジオからで、見る情報はどこから入れていたかっていうと、雑誌なんですよ。アメリカの古雑誌。これは小林さんの方が詳しいと思うけど、要するに駐留していた兵隊たちが読んでいて、国に帰るときに捨てていったもの。それが神田とか横浜の古本屋に山積みされて売っていた。その中からおもしろそうなものを1冊10円くらいで買ってきて、すみからすみまで見る。それが情報源だった。

小林:僕はその当時、実家が横浜だったんだけど、近所に米軍ハウスがあって、そこで生活していた進駐軍の人たちがアメリカに帰っていく時に、全部雑誌を捨てていくわけ。だから引っ越したって聞いたら、すぐにそこへ行って雑誌を漁っていたんです。たいてい奥さんと子供がいる家族で生活していたから、いろんな種類の雑誌があったんだけど、特におもしろいと感じたのがカタログだったんです。当然、日本にないものばかり載っているからね。いろいろと見たけど、シアーズ(百貨店)の分厚いカタログには驚いたなぁ。

石川:雑誌の中には広告ももちろん掲載されていて、例えば自動車の広告だと、車が真ん中にあってその周辺に当時のアメリカのファミリーの生活が独特なタッチのイラストで描かれている。そういう中にジーンズを穿いた姿もありました。1950年代の中頃で、当時僕は15、6歳だった。

小林:雑誌って、映画なんかと違ってずっと見ていられるでしょ。繰り返し何回も見られるし、そういった雑誌の力って凄いよね。

念願のジーンズ初体験は
上野アメ横から

石川:僕は高校入試が終わったその日に、開放感からその足で映画を観に行った。そこで観たのが『理由なき反抗』。ジェームス・ディーンが高校生の役で出ていたから、当時の自分よりちょっと上の世代の物語。「アメリカの高校生ってこんなかっこうしているの!?」という驚きがあり、更に車を運転しているのにはびっくりした。背広は着ているし、見たこともないような真っ赤なジャンパーも着ている。それと同時に知ったのが、ジーンズだった。あれは違うブランドだったけど、ジーンズを穿いて動いている人を初めて見たのはジェームス・ディーンで、それ以来どうしてもジーンズを穿きたくなった。小林さんはそれ以前の西部劇の世界からでしょ? ここで6年の差が出る。

小林:うーん、西部劇よりも、やっぱりアメリカの家庭が出てくる映画かな。ジェームス・ディーンの時代っていうのは、それまで完全に脇役的な存在だった若者が、初めてクローズアップされた時だったんだよね。

石川:そんな訳で、日本じゃ手に入らないとされてきた本物のジーンズを探し始めるんだけど、ある時どうやら上野のアメ横で売っているらしいという情報が入ってきた。それはどういうことかっていうと、1950年に朝鮮戦争が始まり、この戦争では日本は補給基地になっていた。だから、常にいろんなものが送られてきていたわけ。アメリカ↔日本↔朝鮮で、大量の物資が行き来するんだけど、そのパッケージの中身を保護する緩衝材として使われていたのが着古したジーンズだったらしいんですよ。

小林:つまり、荷物が着いたら捨ててしまうものだったんだよね。

石川:そういった不要なものに目をつけて、まとめて買い取っていた業者がいたんですね。スチールで縛ってある1個2メートル四方くらいのでっかいパッケージなんだけど、それを解くと着古した戦闘服やジーンズなんかが、どどーっと大量に出てくるのを見たことがある。

小林:重さで値が決まるんだけど、中身はわからないまま競売で落札して買っていたんだよね。当時は羽毛の寝袋が一番の当たりで、相当儲かったらしいですよ。

石川:アメ横では、そういう中から出てきた古いジーンズを、きれいに洗い直してサイズと値段を記載して売っていた。古着だから同じものはひとつとしてないのね。僕は当時高校生で、さっそくアメ横に本物のジーンズ(リーバイス®)を買いに行ったんだけど、値段は1本3000円くらいした。とても高かったから、母親に「なんでそんな着古したものが3000円もするんだ?」って言われながらも、手に入れました。それをボロボロになるまで穿き倒しましたね。

小林:それが次郎さんのジーンズの原点でしょ。僕はそれすらなかった時代なんですね。とにかく映画とか雑誌なんかで見るあれ(ジーンズ)が良い、欲しいと。それで、どうも「リバイ」っていうのが本物らしいということがわかったんですよ。

石川:そういえば当時、リーバイス®のことリバイとかリーバイって呼んでいた。

小林:僕はいまだにリバイって言ってるな(笑)。それで、やっぱりアメ横に売っているという情報を得たんです。そこへ行って、新品のリーバイス®が売っているところを見つけました。2、3軒あったかな。でもあの当時、なんで新品がアメ横で売られていたんだろう?

石川:輸入している業者なんてたぶんなかったから、PX(米軍基地内にあった米兵用の店)からの横流しだったんじゃないかな?

小林:確かに。タバコもチョコレートも最初はそうだったもんね。とにかくその当時は、新品のリバイを探しにアメ横へ行くっていうのが、僕らのやらなくちゃいけないことだったんですよ(笑)。

石川:小林さん、それで買えたんですか?

小林:買った。2800円くらいだったかな。リバイが置いてあるお店を何回も行ったり来たりして、ようやく買えた。

日本で最初に
カッコ良くジーンズを穿いたのは
三國連太郎だった

石川:当時、日本で一番人気があった男性のスターは石原裕次郎。1957年に公開された『鷲と鷹』っていう映画が特に印象的だった。裕次郎って、あの映画の中でジーンズを穿いてたんだっけ?

小林:穿いてはいたんだけど、混紡の薄っぺらい最悪なやつだったんだよ。

石川:よくいう、ダンガリーみたいな生地ですかね。

小林:混紡のジーンズなんてありえないし、デザインも話にならない。日本の作業服屋が見よう見まねで作っていたんだろうね。裕次郎は劇中でそれを穿いていた。

石川:僕は裕次郎のファンだったけど、ジーンズ姿はいただけなかった。なんだかカッコ悪かった。ぜんぜんジーンズのシルエットじゃない。

小林:『鷲と鷹』で最高にカッコ良かったのは、共演していた三國連太郎さん。裕次郎って、背は高いし足も長いんだけど、体格自体はあまり良くないんですね。かたや三國連太郎さんは西洋人の体型に近い。洋服って、肩とお尻に肉がないと似合わないんですよね。

石川:三國連太郎さんは船員を装って潜入捜査をしている刑事役で、上半身裸でジーンズを穿いたりして登場するんだけど、そのシーンを見て「裕次郎よりこっちのほうが全然カッコ良い!」って驚いた記憶がある。ジーンズってこうやって穿くんだな、って。

小林:だから日本人で初めてカッコ良くジーンズを穿いた人は、三國連太郎なんです。

石川:最後に事件が解決して、刑事という正体を明かすときに着ていた白い麻のスーツ姿もまたカッコ良かった。

小林:その後、赤木圭一郎っていう凄い新人が日活から出てきて、盛り上がった。芝居は下手だったけど、その人も西洋人体型で洋服が似合っていてカッコ良かったんですよ。ジーンズも上手に穿いていた。事故ですぐに亡くなってしまった、幻の俳優なんですけどね。

ジーンズは
ヒッピームーブメントによって
若者のシンボルとなった

石川:後年、僕らは知り合うこととなり1967年から一緒にアメリカへ取材に行き始めるんだけど、あの頃のアメリカはベトナム戦争が泥沼化して、若者たちみんなが「反戦」や「ラブ&ピース」という言葉で繋がっていた。当時はその現象が僕たちの主な取材対象だった。今思うと、ジーンズが若者たちのユニフォームになったのも、ちょうどあの頃だったんじゃないかな。連帯感とともにみんなが穿き出したというか。それまでのジーンズって、誰でも穿いているようなものじゃなかったですよね。

小林:うん。トラックドライバーとか、労働者たちのワークウエアだった。

石川:ところが僕らが取材へ行き始めたあたりから、若者のシンボルのような存在になっていった。あの伝説のウッドストックのロックコンサートの写真を見ても、そこにいる若者たちはほとんどジーンズ姿ですね。その頃はリーバイス®もベルボトムをたくさん作っていたでしょ。僕たちも穿きましたよね。

小林:穿いたね。

石川:ニューヨークのグリニッチ・ビレッジを取材すると、男も女もみんなベルボトムのジーンズをずるずる引きずるように歩いていた。でもその時代はそうじゃなきゃいけなかった。それがあの時代のジーンズだったかんじ。

小林:引きずっているベルボトムの裾が、地面と繋がっているように見えるんですよ。それが良かった。

石川:だけど『POPEYE』を始める1975年頃には、僕らもベルボトムなんて一切穿かなくなって、ジーンズといえば501®になっていた(笑)。その変化もおもしろいですね。アメリカの若者たちの意識がまた変わって、いわゆるヒッピー的な穿き方のジーンズスタイルから、西海岸的な清潔感のあるスマートなジーンズの穿き方になっていった。その移り変わりを間近でしっかり観察できたのは嬉しかった。

小林:その頃になると、アメリカへ取材に行く時と帰って来た時とで、格好が全然違うんですよ。送り迎えに来る人も驚いていたね(笑)。

世の中が変わればファッションも、
そしてジーンズも変わっていく。

石川:ベトナム戦争という大きなテーマに対して当時の若者が「反戦」をスローガンに集まって、そこから音楽やアートだったり、いろんなカルチャーが生まれてムーブメントになったわけでしょ。ところが、1975年にベトナム戦争が終わっちゃうわけですよ。この大きなテーマが突然なくなってしまうと、若者たちはどうなっていくのだろう? 僕はその変化に興味があった。それで、しばらくすると彼らは自分自身、己を考えるようになっていくんですね。そこからまた、いろいろなムーブメントが出てきた。自然志向や健康志向、サーフィンとかスケートボードを本気で始める連中もいて。それまでの長い髪をばっさり切って、ジーンズもベルボトムから501®をピシッとロールアップして穿くようになって…。ルックスもまったく変わってしまった。表面的に見るとそういった変化がありましたね。そして、それが1976年に『POPEYE』をスタートするきっかけであり、最初のテーマだった。アメリカの若者たちがこんなに変わるんだったら、日本にもこの波は必ず来る! って。

小林:世の中が変わるってことは、ファッションも変わるっていうことなんですよね。ジーンズなんて、それを示すのに最適な実例なんじゃないかな?

石川:リーバイス®が501®を本格的に復刻し始めたのだって、1975年くらいからでしょ。その前のベルボトムから大きく変化するこのタイミングとシンクロして、リーバイス®は501®という本来のクラシックな姿をあえてアピールしたんだと思います。僕らはその当時の1975年、そんなリーバイス®の事情などまったく知らずに『Made in U.S.A』というムックで501®を表紙に大きく使いましたけど、あとからあれは大正解だったなと確信しましたね。

時代の移り変わり、特にアメリカが大きく変わる重要な時期に現地へと渡り、自分たちの目で若者たちの変化を見てきた、石川次郎氏と小林泰彦氏。今回の対談からもわかるように、リーバイス®は激動ともいえる時代も、若者をはじめとする多くの人に寄り添いながら本物のジーンズとして存在し続けた。これから一体どんな時代がやってくるのだろうか? また大きな変化が訪れたとしても、リーバイス®がリーバイス®であり続けることは間違いない。

PROFILE

石川次郎 | Jiro Ishikawa

1941年生まれ。編集者。1967年、『平凡パンチ』誌でエディターとしてのキャリアをスタート。『POPEYE』の創刊メンバーとして携わり、『BRUTUS』、『Tarzan』、『Gulliver』等を創刊し、編集長を歴任。その後、編集プロダクション「JI inc.」を設立。人気深夜番組のキャスターを務めたこともある。

小林泰彦 | Yasuhiko Kobayashi

1935年生まれ。画家、イラストレーター、エッセイスト。著書に『男の定番図鑑』『ヘビーデューティーの本』など。石川次郎氏が編集者である、1967年〜1971年にかけ『平凡パンチ』にて「イラスト・ルポ」を連載。これを集約し、2004年に出版された『イラスト・ルポの時代』が今年12月に再び文庫版としてリリースされる。